2009年09月04日

裸のランナー

こんばんは、御無沙汰しております、3S社長の「橘」です。お盆の仕事も終わり、残暑をしのぎながら,大地渡る優しい風に包まれ生活している今日この頃ですが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。

こんな時節には、バラフォン、リッティ、コラ、イグザラム、トクホーetc・・・。多種多様なアフリカの打楽器のポリリズムに身を委ね、神話的な世界に浸っていられたらどんなにか楽しいことだろうけど、縦軸の進行方向へ現実時間が冷たく流れていく限り、それに引きずられ、縛られていっている自分も強く感じます。

ただ、現実の中で刻々と規定されていきモザイク状に色々更新塗り潰されていく自分をどう抗うこともしない、できない―――その状態が正しいか、間違っているか、それとも大間違いであるかは、答えは風の中にさえ無いのであって、そうであれば自分なりの小さな道徳と好みと、コツコツとした努力(歩み)を実行し続ける以外ないと思います。

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走ることが好きだった―――夏の終わりの朝露を感じながら、ふとそんなことを思い出します。ふだんだったら意識しない肉体的な感覚も走ることによって外的にも内的にもバイパス的にも強く感知することができます。

自分というヒトが時間的にも空間的にも有限資源であることを自覚する様になってから、ときおり、自己の内部の素直な好奇心・感覚・感情をある時間・場所において解き放ってみたい―――そんな夢が対象を他人(別のヒト)へと向けて、現実とは違う新たな神話(人間関係)が成立しはしないものだろうか?

ずっと昔(70年代前半ぐらい)よく銀座や新宿の街中で、裸で走る若い女性(ストリーキング)が流行していたそうだが、そういう人も何らかのヒューマニズム・人間関係・愛・赦しを強く渇望している―――何かそんな挑発的・挑戦的なモノを感じます。

ヒトがヒトを愛すること、或る人の内発的な感覚からそれ(ヒューマニズム)か生まれるとしたら、それは裸(の様に無心)で走る―――と云った外へ向かった自立した人間にこそその資質があり、その資質が別の乾いた歪められた人格を潤し、癒すことができる―――そんな可能性を自分や他人や人間に感じるときがままあります。

 

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